Source: Nikkei Online, 2023年8月3日 2:00
建長8年(1256年)の東大寺講堂本尊製作中に没した湛慶(たんけい)の後を継いで像を完成させたのは、2年前に京都蓮華王院(三十三間堂)本尊の造像でも湛慶の助手をつとめた康円(こうえん)(1207年〜?)だった。運慶四男康勝の子で、建長元年(1249年)から文永12年(1275年)までの活動がたどれる。伯父湛慶との共同作業を別とすれば、康円の事績のほとんどは奈良地方のもので、ことに内山永久寺での活動が活発であった。永久寺はかつて奈良県天理市にあった大寺で、明治の廃仏毀釈で廃寺となったが、伝来した仏像類が各地に残る。東京国立博物館に2体、他に2体が分蔵されている四天王眷属(けんぞく)像も永久寺真言堂にあったもので、台座の銘記から文永4年(1267年)に康円が造ったとわかる。
四天王眷属は珍しいが、四天王1体ごとにつく従者の像である。写真は南方天(増長天)眷属。仏像の世界では位の低い「天」に属する像のなかでも下っ端の野卑な姿が強調され、右足に履く長靴は先が破れて足指がのぞく。その表現は説明的でわかりやすく、人形のような趣もある。祖父運慶がつくりあげた鎌倉彫刻は孫康円の代にここまで変化した。
(1267年、木造、彩色、玉眼、像高32.1センチ、東京国立博物館蔵)